2013年2月3日日曜日
省々道々 2
自分は伝えたいことが多すぎる。
それは恐らく自分という人間が、認めたくはないけれど、いわゆる暑苦しい人間の部類に入ることを暗に示しているのかもしれない。最近そう思うようになってきた。
たぶんそうなんだろうな。
憧れるというか、あぁ、いいなって生き方は、代替クールだったり無気力だったりするような人で、アニメや漫画のキャラで言うなら、省エネ主義者の折木奉太郎とか、テンペストの吉野とか、そういう感じで生きていたいなとか思うんですよ。なんだろう、感情的になるよりも一歩下がって自分や周りを俯瞰していられる感じの、そんな感じの人間に。
でも、それって憧れている時点でそれはきっと自分にはないものなんだってのを示しているってことだ。つまりはそういうタイプなんじゃない。
自分はどっちかというと、感情的な人間だ。起伏が激しいというわけじゃないけど、自分に対しても、人に対しても、自分のことを考える時も、誰かのことを考える時も、その人の気持ちというものにこそ焦点がいく。つい最近までは、ひょっとしたらいまだに、それが自分の感情にしか向いていなかったから自分は自己チューだ(った)。最近では少しずつ人の気持ちというのにも気づけるようになったけど、それでもまだまだ不十分で。ま、とにかく自分は感情というものに重きを置いて考えを進めていくタイプだ。だから怒れば収まりがつくのは遅いし、許すのも遅いかもしれない。相手の気持ちを汲み取りたい、だから聴かせてほしいと、そう迫ることが多いかもしれない。それは決していいメソッドではないだろうけど、でも仕方がない。自分は相手の気持ちが知りたいのだ。想像しかできないそれを、少しでも相手の口から聴きたいんだ。そして自分は思っていることをより多くの人にたくさん伝えたい。自分の抱いたこの感情を大切にしたいというよりも、それは主観的なそれでしかないので、誰かの目に通して別の見方や考え方を手に入れたいのかもしれない。つまり、自分はより多くの人に考えをたくさん伝えて、それと同じ分だけ、もしくはそれ以上のレスポンスがほしいのかもしれない。そういう人を好みやすいのだと思う。言っていることをただひたすら聞いてくれる相手、それはそれでとても素晴らしい。大切にしたい人だ。だけど、レスポンスもほしいのだ。
ここまで書いて自分を俯瞰してみると、自分はどうやらずいぶんめちゃくちゃ大変なことを人に要求しやすいらしい。これでは多くの人が疲れてしまう。これが自分という人間の相手に与えてしまう面倒くささにつながるのだろう。そうだな、少しはセーブしないといけないだろうな。最近は本当に相手がどう思っているのかに興味があるし。
自分の感情を言語化して相手に伝えるのは、出来事を伝えることよりも格段に難しい。
現に自分はここで自分の感情を正確に言語として体現できているのかはわからない。
言語である以上は受け手により解釈の違いが出る。そういう意味じゃすべての言語は文学であるともいえるのではないかと思うが、学者に批判されそうなのでそうではないことにした。
つまりは何が言いたいかというと、そんな難しい作業はよっぽどではない限り相手に強要するのはどうなのか、と自分に問いたいのだ。
大事なことは、きっと、相手が自分の感情を話したくなるような人間でいられるかどうかなんだ。自然とその難しいことをやって、そのうえで伝えたいと思われるような人間なのかどうかなんだ。
思っていることを正直に言ってもらえないのは、正直に言わせられる力がないからだ。人はそれを人望と呼び、また信頼と呼び、また形を変えれば器とも呼べるのだろう。
俺にはそれが欠如しているんだと思う。そう、気持ちを伝えてもらえないなんて、それこそ、ほら、例のあれだ
「所詮俺という人間はその程度の人間だったんだ」
ということだ。
要するにそういうことだ。
ここから得られる反省点は、もっと相手が自分の気持ちを打ち明けられるように、感情以外の何かほかのことでも相手に興味を持ち、日ごろからかかわってあげるべきだということだ。まぁ、この場合たぶん、自分が関わってほしいからやっているんだろう。あぁ、なんて独善的な自分なのか…
自分という人間は暑苦しい一方で、「笑い」というものを大切にしたい人間なんだと思う。
自分はよく冗談や皮肉を言うことが多い。皮肉はどうかと思うが。冗談で人を笑わせたり、突っ込みで笑いを取ったり、うまいことを言ったり、変なことを言ったり、そういうので笑ってくれるのが大好きな人種らしい。芸人ほど面白くはないし、たぶん結構不発の時が多いけど。
ラジオにネタを投稿して読まれる。この経験が自分のこの部分を形成してくれたのだと思う。自分が面白いと思う、誰かを笑わすことができるネタを投稿できたら、その時点で自分は勝ちなのだ。なのにそれを放送で読んでもらえる…至高の喜びでしかない。そしてそれでテンションが上がるのだ。誰かの笑ほど、自分を直接的に高めてくれる人間はいるだろうか。
だが、この部分が裏目に出ると、普段から冗談しか言わない人になってしまうのだ。だけど、実際の自分というものはこのように自分の考えをやたら目ったらこねくり回して考えている、意外にうじうじしたやつなので、周りに自分を誤解させやすい。本気の言葉を投げて冗談ととられることも少なからずある。そんなときもあれだ、例の言葉
「所詮自分はその程度の人間だったんだ」
ってわけだ。
ここから得られる、得なければならない教訓はこうだ。もっと目理入りつけて生きろ、人望のある人間になれるよう日ごろの行いに気をつけろということだ。
自分という人間はおそらく、人前に立ってまとめあげる力に、天才的ではないにしても、多少長けている部分はあるのではないかと思う。能力的には少しだけその素養はあるのだと思う。だがそれに人格が相当していないから、サークルの指揮者としての自分にはまだまだ力がない。人望という最も欠けてはならないその力が。自分は人を信用させるだけの説得力が全くない。まったくではないにしても、もっとより多くに自分の気持ちが嘘ではないことを伝えられる力が必要だ。行動が必要だ。
ってか、もしかしたら周りのほうが正確に自分を見ていてくれて、自分はうそをついているのかもしれない。そう見られてしまうことが多いのかもしれないのではなく、事実そうなのかと。んーそうかもな。でも、自分がどう思うかは自分で決めるしかなくて、嘘かどうか疑ってそのうえで本物だと思ったことをウソって言われたときに自分は怒りたくなるから、そうじゃないのかもしれない。怒るってことは何かやましいことがあるってことか?とも思うんだけど、でも違うと思う。それはきっと自信を持って生み出した名作を「クソ」だとか根拠もなく否定された時のものだろう。根拠さえはっきりしているならいくらでも認めて受け入れて遂行のし甲斐があるが、ただの好き嫌いで「クソ」と言われれば万の言葉、いや億の言葉を用いてそいつを敵とみなし論破して進ぜよう。たぶんそういうときの怒りだから、そこには自信を持っていいのかもしれない。
疑うことや考えなおすことは大事だけど、自分という人間の根幹にそれをやってしまうと、後々疲れることになるからやめておく。
直さねばならないことだけはそうしていく。常に新しい視点や解釈を忘れないように。
そうやって生きているのが実情だと思う。
自分は天才ではないから天才にはなれない。
そう、何もかもわかったような、文学での三人称の語り手みたいな、そんな人間じゃないんだから、仕方がないんだ。自分で考えて軌道修正して。それを繰り返す、泥臭い人間なのだ。だけどそれも悪くないと思える。たんたんと生きるよりも、毎日が濃厚だ。
頭の中はいつでも濃厚だからちょっと疲れる時がある。そんな時に厄介ごとにぶつかるともうイライラだ。カルシウムとビタミンCをとろう。
さて、やらないとならないことが残っていて、今インフレを起こしそうだからこの辺で今日は終わらせておこうか。
明日は最近聞いた楽曲のレビューでもしようかな。アーティストのレビューだとちょっと規模がでかくて漠然として抽象的になっちゃうだろうから、気に入った曲をヘビロテしながらゆっくりと書いていこうかなと。
それでは。
省々道々
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿