暇がたたりすぎてだいぶ昔のゲームを最初からやり始める非リアでーすww
お金ないから友達と飲みに以降にも行けないんだよな…そのくせCD買っちゃうんだよな。でもゆかちがかわいかったんでまぁよしとしようか。
今日も楽曲レビューと行こうかな。
本日取り上げるのは1曲のみ。
『UNISON SQUARE GARDEN / クローバー』
結構初期の曲ですね。
ユニゾンの曲ってなかなか何について歌っているっていうのを一言にすっきり言い表せる局が少ないと思うんですよ。それこそユニゾンの良さだと思います。ですがこの曲ははっきりと言い表せることができるでしょう。同じアルバムに収録されているほかの曲よりはすっきりと言い表せますね。たぶんこれはラブソングでしょう。
というのもサビに「君がここにいないことで」「あなたがここにいないことで」「好きだよって言ったフローリア」などのフレーズがあり、ほかにも「アルキメデスが恋におちた十一月の約束の日」などのフレーズがあるので、おそらくそうだろうということで多くの人の見解は一致するでしょう。
ひとえにラブソングといいましても、ユニゾンだけあって、簡単に解せることのできる曲ではありません。今もリピートしながら考察しています。
まずこれはどのような人から見た視点なんでしょうか。作詞作曲の田淵さんの思い出とは考え付きにくいですね。たぶん田淵さんはそういうタイプではない。だれの歌なのか?
たぶんその答えはないと思う。一人だけの視点とは考えづらいし、小説風に言うなら三人称的な語りと一人称的な語りの混在がそこにはあります。自由間接文体的な。
冒頭の「十二時 時計塔の下」から始まるこのフレーズはシンデレラを思い起こさせるなぁと自分は思いました。でもそれに続くフレーズは「新しいワンピースで」ときて、(次が問題なんですけど)、「軽やかに、それは軽やかに走り出す」とくるんですよ。
「それ」って何だ?ワンピース?それともワンピースを着た何か?どうとでも理解できるよな…
それがわからないから把握できないんですね。なのでもうちょっと見ていこうとすると、今度は「風船」と「子ども」が出てくる。その子どもは風船を見つける。どうやらその風船には秘密の暗号があるらしい。もしくは誰かがその子供に秘密の暗号を送っている。でもその子は気づかずに、「放した それを放した」。すると風船は「空に吸い込まれた」。
思うにこの冒頭部分は、おそらく世界観の形成が意図されてるのではないかな、と思うわけです。とてもきれいな情景なんですよ。おとぎ話の中のような。十二時は多分夜の十二時か、あるいは昼の十二時か、それはどちらかはわかりませんが、新しいワンピースが軽やかに走り出す(あるいはワンピースを着た何かが)。それが昼であっても夜であっても、時計塔の存在が少しロマンチックな雰囲気を出している。風船と子どもはそろって出てくるととても微笑ましいワード。風船が空に吸い込まれていく。秘密の暗号がある風船が、子どもが手を放してしまったことで空に吸い込まれていく。美しく、切ないシーン。走り出したワンピースと、空に吸い込まれた風船。始まりと終わりすらも連想させるような不思議な空間はここで形成され、以降どんどん流れるように運ばれていく。
「わかんないのはクローバーに込められた願い」
「夢ならば思い通りになるのにな」
クローバーに込められた何らかの願いを知りたいと思う心境。だけどこれは、いったい誰の願いのことなのだろう?それともクローバーそれ自体に込められた願い、簡単に言うと普遍的なある種の花言葉的なものへの追想なのか。とにかく、クローバーに込められた願いはわからないのだ。
そしてサビへと向かう。
君がここにいないことで あなたがここにいないことで
回ってしまう地球なら別にいらないんだけどな
そっと抜け出したパーティーも 大好きだったあの映画も
未来のパズルへ続いてる
「また、会おう」って言ったフローリア
さぁ、この曲の解釈における最大の難問が登場します。
フローリア
人なのでしょうか。まぁ言語話してるし名前っぽいし人だとは思うけど、もしかしたら違うかもしれない。
ちょっと調べてみたらフランス語で「花が咲く」という意味らしく、おそらく…動詞?でも動詞が話すかな?
たぶんここでは固有名詞的にとらえていくほうが正解なんだろうな。
だとしたらこのフローリアは女性かな。男性かな。そのへんはどっちでもいいというか、どっちでもないというか。
もしかしたら聴き手それぞれにゆだねるのかもしれない。聴く人によってフローリアは違う人を思い起こさせるものなのかもしれない。自分の場合は、中学の問いの彼女を思い出しました。手痛くフラれてトラウマですww
さてそんな余談はさておき、サビ全体の考察。
もう「君」はいないのでしょう、おそらく。何らかの理由で目の前にはいない。その人がいなくても回ってしまう世界に困惑している。ここまでは少しわかります。という過去の部分を見ていたらおそらくこの歌はフローリア視点なのではないかと思い始めました。冒頭部分は、フローリアにとっての「君」がいない世界。そういう解釈もできなくもなくないか?…と自問してみますが、それにしてもクローバーの願いをどう解釈していくのかが分かりませんね。思い通りに~の部分は、また会いたいという意味ではないかと思います。のちに出てくる「また、会おう」の部分に対応しているような。サビでのパーティーや映画などの懐古を、フローリアは「未来のパズルへ続いてる」と言っている。つまり思い出は必ずまた「君」と会える未来へつながるという風にとらえているのではないか、そういう風に解釈しました。
この見方はけっこう納得がいくかなと自分では思いますが、それでも説明つかないところが多々あるし、絶対に完璧な解釈とか無理だろうな、とも思います。
ひとまずフローリア視点でという考えで進めていきましょう。
続いて二番へ。
今度もきれいな世界が描かれている。にしても
「キラキラ八の字畑」ってなんでしょうね。庭園かな?八の字下畑なんてないからな。でもこの世界観の中に整然とした普通の畑があるようには思えないし、ここにはそんなに引っ掛かりを覚えなくてもいいのかな…
誰かが落としたハンカチーフ。それには魔法がかかっている。
この辺は運命的な出会いか何かがあるのではないかと予期されているのかなと思います。
この部分も結構難しい。
クローバーの話がまた出てきます。
どうやらこのクローバー、「君」からもらったものなのではないでしょうか。何かの想いが託されていて、その隠された想い、それを知りたいと思っている。それがわかりたいと思っている
"You may know lover"
この一説が曲中に出てくるのですが、これは前述の「夢ならば」に対応する修辞的なリリックです。これすごくすぐれてると思います。「あなたは恋人が誰かもうわかっているかもね」というメッセージ。ただしこれはだれによって送信されたのでしょうか。クローバーに隠された想いなのか。それはわからない。でもおそらくクローバーが「君」から贈られたもので、そしてそのメッセージたる前述の英文、その答えと、それを発信した「君」に隠された想い。
それらすべては
「聞こえないけど」
で締めくくられる。このことからおそらくもうフローリアと「君」が出会うことがないと、フローリアはわかっているのではないでしょうか。
そして二回目のサビに移ります。
「アルキメデスが恋に落ちた11月の約束の日」
いきなり出ましたね、アルキメデス。ちなみにアルキメデスとは有名な学者さん。何研究してたとか何を発見したとかは自分文系なのでもうからっきしわけわからんけどww
この人が恋に落ちたのは、どうやらある11月の「約束の日」らしい。
さて、なんの約束の日か。明らかに公的な記念日を意図していないのはわかる。自分の解釈に基づいて考察していくなら、おそらくはフローリアと「君」が「また、会おう」そう決めた日ではないでしょうか。
そしてこの部分に続くのが
「大人への境界嫌って星空と手を繋いだ」
フローリアにとっての「君」が遠く空の上の人となってしまったとするなら、星空と手を繋ぐことは、再び会いたいと思っていることを、そしてフローリアの中では「君」がいなくなったことを認めたくないという気持ちの表れではないのか。そういった現実を受け入れていくという「大人への境界」。それを嫌うフローリア。
まぁ空の上の人というのは言い過ぎかもしれないけど、おそらくここではフローリアはまだまだ若く、もう今は何らかの事情で会うことができない「君」と、会うことができないという現実を認められていないということが言いたいのじゃないかなと思います。
そしてサビの最後のフレーズ。
「そのからくりで時を止めた まやかしじゃないその世界は」
「未来のパズルへ続いてる」
たぶん、フローリアと「君」がともにいた日々が「その世界」であり、その世界自体が持つ「からくり」によって自らの時間は止まる。時間が止まって永遠となったことでフローリアの中には未だ「君」との世界は存在する。そしてこの世界はきっと「未来のパズルへ続いてる」んだとフローリアは思っている。ふたりの世界自体が未来のパズルのピースとなり、それを完成させることで、再び二人は会える。そう願っている、信じている、あるいは本当にそうなのかと。
そして間奏部分へ移る。楽曲的な構成の話をすると、ここで一回だけ移調します。
「雨のせいで辿り着いてしまった 無機質なお伽噺の結末は」
「今日になれば誰も覚えてないよ ただ」
「ただ一つだけ気になることがあるんだが」
そう、二人の紡ぐはずだった物語は「雨」という悲しみすら象徴しているものにより、「無機質な結末」へとたどり着いてしまった=ふたりはまた会うことはできないという、無機質でつまらない、そして信じ受け入れることができない終わりを迎えてしまった。
そんなことはフローリアにとってだけ重要であり、ほかの誰か、あるいは「君」ですら覚えていないのではないか。
ただ、それでも気になることがある。
それはおそらく、「クローバーに隠された想い」ないしは「クローバーに込められた願い」なのだろう。それだけを知りたいのだ。
そして最後のサビへ。もう一度繰り返されるサビ。
君がここにいないことで あなたがここにいないことで
回ってしまう地球なら別にいらないんだけどな
そっと抜け出したパーティーも 大好きだったあの映画も
未来のパズルへ続いてる
「また、会おう」って言ったフローリア
そう、フローリアにとってはあくまでも「君」のいない世界など意味がない。「君」と過ごしたその世界はきっと未来で、二人が再び会えるという、パズルの完成形へと続いている。
だからこそフローリアは「また、会おう」そう言った。
そして最後にこういうのだ。
「好きだよ」
って言ったフローリア…
そして曲は静かに、きらびやかに、その思いを、切なさを、願いを、冷ますことなく、美しく、熾烈で、醜く、儚く、そしてまっすぐに描いたまま、終わっていく。
なんかめちゃくちゃな解釈しちゃったっぽいなww
あっているかはわからんし
うまく説明できたとも思えないし。次から次へと頭の中で浮かんだ考えをただただキーボードにぶつけてみました。
だから万人の万人における解釈があって構わないと思います。自分はこう解釈しました。
…だとしたら、切ないよな。フローリアの気持ちがわかるわ、少し。
そういう気持ちを人は何て呼ぶのかわからない、そういう人を押さないというのかもしれない、でも、そういう気持ちはすごく大切だと思う。
さて、これ以上ヒートアップするとただの長文。
楽曲的な話にも移りましょうか。
曲の世界観を美しく表現する意味でも優れていると思うのは、この曲ではギターとドラムですね。儀他は流れるようなアルペジオをひたすら続けていく。この美しい音が世界観を美しく流していく。そう思います。そしてドラム。この世界観をぶち壊すことなく、シンバルによって美しさを与え、バスドラによって深みと躍動感を与えていく。転調に関しては(そんなに数をたくさん聞いてきたわけじゃないのでわかりませんが)、あまりユニゾンにはないキーに移ったんじゃないかなと思いますが、このキーじゃないとだめですね。美しさを表現するにはこのキー以外ではありえない。素晴らしい。すごいですね。この楽曲は。
さて、そろそろ寒いし疲れてきたのでこのへんで。
興味がわいたら、この曲聴いてみてください。
ではではノシ
2013年2月11日月曜日
2013年2月4日月曜日
『さわやかな共感』と『奇妙さえを包括する世界』
こんにちは。
さて、前回も書いた通り、今日は楽曲レビューを。
今日最初に(二つ以上書く気力があるかわからないけどまずは一つ目に)取り上げる曲はjoy / アイオライトです。joyがバンド名で、アイオライトが曲名です。
この曲はエウレカセブンAOの後期EDテーマでした。この曲を初めて聞いたのはその時です。
友達に交響詩篇が面白いという話を聞いて見てみたところ、まぁーなんという電波アニメww
最初のほうはまだマシだったんだけど、後半はほとんどもうわけがわからず見てましたね。こんなにわけのわからんかったアニメはガンダムWだけでした。しかも後半はホランドのレントンへのDVがひどくて始終ムカついてましたねww「コイツ、マジで嫌いだ」って思った最初のアニメキャラですわ。未だに嫌いです。
まぁわけのわからんかったアニメだったが、でもなんか純粋なレントンとエウレカを見ているとこう感動できるものがあったし、何より最後のほうではレントンがどんどん成長して、最後にはただのイケメンになっていて、そういうところがよかったかなーと思います。
でも繰り返し見ようとかは思えなかったww
んで、その流れでAOも見始めたわけですが、まー世界観がものの見事に違いすぎて、これ別にエウレカでやんなくてよくね?と思ったことは隠せませんでした。これがどこに向かって進んでいるのか、わからなくなることのほうが多かったですからね。でもとりあえずフレアがかわいいから見とこーと思って視聴。そして後期が始まったとき、ワタクシは震撼しました。 OPもEDもめちゃくちゃいい曲じゃないか!と。エウレカのOPはやっぱりflowじゃないとね~と思っていたのんでブレイブルーは最高でした。ですが自分が最もひかれたのはこのアイオライト。
この曲はイントロの一音目、要するにメロディーの一音目、そこから心をつかんできましたね。歌声もそうなんでしょう。でもその次の瞬間に追い討ちをかけるかのようにしてなり始めるベースとギターの音、そして軽快なドラム、これがもうなんか何とも言えず最高だったんですよ。EDアニメーションもなんか一部はアニメの内容とあってなくて云々とか言ってたらしいけど、自分はなんかとっても感動できるように感じて(決してフレアがかわいいからではありません、決してフレアがかわいいからというだけではありませんが)、このアイオライトという曲の歌詞とも相まってすごくいいなと思ったんです。「そうして僕は僕になる」という言葉が、すごく印象的でした。なんだかわけのわからないうちにLFOのパイロットになったり、母親がよくわからない人だったり、幼馴染はいきなりわけのわからないことを言い出すし、とにかくわけのわからないことに巻き込まれて迷って悩みながらも成長していくアオの言葉のようにも聞こえて。
「あぁ、これぞ名曲なんだ…」
と思ってすぐにCD買いました。それでしばらくはヘビロテしてばかりいましたね。Youtubeにも確か公式のMVが上がっていたのでそれも見ていました。うん、アニメと切り離してもすごくいい曲だった。ボーカルの声は透き通るようで、歌声には無理な力みが見られないのにそれでも心に引っかかってくる。すっと入ってくるんですよ。あんまりエレクトリックな音楽には詳しくないんですが、シンセの音かな?それがすごく特徴的で、ロックバンドなんだけど重たい音楽というよりもむしろ、流れるようななめらかさというか、漂う感じを出しているんですね。ギターもそんなに激しい感じじゃなくてふわっとしている感じというか、強い主張をしているわけではなくて、その電子音に合わせるようにさわやかさを前面に出している。ドラムとか結構がっつり叩きまくってるんですよ。ギターロックの色が強めな邦楽ロックの中では珍しいかなと思います。でもそれがギターとか電子音と相まってちょうどよくて。サビ前でくるベース!!!これにはやられますね。間奏部分で入る特別なエフェクトがかかったボーカルもいい。
本当に最初から最後までさわやかな曲って感じです。よく晴れた日の朝に聴くとめちゃくちゃテンション上がります。この曲のイメージカラーは青とか水色、白、緑(薄くて少し水色がかった感じ)ですね。
このバンド、調べてみたらこの曲でメジャーデビューしたらしく、まだまだ新進気鋭ですね。王道というにはちょっとおおげさかもしれないけど、安定感があると思いますね。斬新性が強いというよりは。あ、いい意味でね。奇をてらいすぎるより、こういうさわやかでストレート、でも奥の深いメッセージを歌っている曲は大好きです。
サビのフレーズは心にとにかく響きます。
「あなたを想うことさえも 許されないと知って 存在を否定されたような気になっていたよ」
「待ち受けている運命に 立ちすくみ怯えていた もう決して迷わないように 強くなっていくよ」
「二度と戻れない過去を 明日から糧にして そうやって乗り越えてゆくのさ」
「そうして僕は僕になる」
自分の実力や先々のことを憂う気持ち、でももうこの一瞬も次の一瞬も決して取り戻すことはできない。だからこそ迷わずに強く突き進んで、自分の運命でさえも乗り越えてみせよう、もっと強く生きようという、少年のさわやかで、だけどほろ苦く、どこまでもまっすぐな気持ち。自分はそんな気持ちが少しわかる気がします。昔、いやひょっとしたら今もそうやって生きているような部分はあるんじゃないのかな、と。似たような感情を抱いた人は、少なからずいるんじゃないでしょうか?
AOの最終話でアオがまた島に戻っていくところでこの曲が流れた時にはもうやばかった。さんざん悩んで苦しんでわけがわからなくなって憤りを感じて、でもそうやって生きていく中でようやく自分の中で何か『答』と呼べるものを見つけ出して、そして最後に決断を下したアオ。すごく良かったと思います。レントンとの戦いの中で言っていたセリフ、正確には覚えていないけど、あれはすごく良かったと思ってますね。
まぁ下世話な話をするなら、あそこまで要素が散らかったのによくあの最終回でまとめることができたな、と思って自分なりに満足しましたねww
さて続いて語りたいのはpeople in the box / 物質的胎児
peopleを聴き始めたのはごく最近で、まだ最新のアルバムにしか手を出せていません。名前はずいぶん前から知っていたのですが、なかなか自分で自由に使えるお金のなかった時でしたので、CDを買うことはできずにいました。ずっと聴きたいと思っていた矢先にラジオのゲストでボーカルのハタノさん(漢字忘れた)がいらして、その時に話とともにがっつりと楽曲を聞いたのですが…
ドストライクでした。
言葉の選び方というか、選ばれて紡がれた歌詞が、僕の好みを抑えつつ、その斜め上にまで伸びている感じがしましたね。「これだ!」って思って次のくらいには買おうと思えました。いろいろ立て込んでしまったせいでそのずいぶん後に購入してしまいましたが。
中でもこの物質的胎児という曲がすごく気に入りまして。
全体としてはイントロは静かに入って行って、最後までその雰囲気を保ちつつも盛り上がっていく感じかな。イントロあたりのドラムの音は心臓の鼓動音を意識しているように感じた。ギターの音はまるで母親のおなかの中にいる時の羊水の流れを連想させました。たぶんタイトルから自分はそう感じたんだと思う。不思議な浮遊感をずっと給って進んでいく曲で、すごくきれいな曲、というのが聴いた率直な感想なのですが、でもきれいという一言で表すにはあまりにもその言葉が貧乏に感じてしまうんです。この美しさにはどこかきれいというプラスの意味合いだけを持ったものではなく、もう少し違うニュアンスがあると思うんですよ。あきらめやデカダンスのようなものの存在に対してそれを軽く揶揄…いや違うな、それらの存在を軽く認めて、その上でそれらをきれいなものに書き換えてしまっているというか、全然きれいじゃないと思ってしまうようなものまでも、この楽曲の中では、おそらく意図せずして、そうなるべくしてきれいなものとして流れて行っている気がするんです。その世界観は不思議すぎて、現存する言葉を組み合わせただけの基本的な文法事項では決して語ることができないような、そんな尊さや気高さ、ないしは完成された完璧さというものがあるようにさえ感じてしまう。
たぶん聴く人によっては意味なんてない歌詞だという人だっているかもしれないけど、自分は一人の受け手として、すべての楽曲に何かしらの意味と解釈を見出していきたいと思っています。それが音楽を聴くということなんじゃないかと思っているからです。だから僕のこの解釈はだれかのそれとぶつかって構わないし、もしかしたら作り手のものとは食い違っているのかもしれない。けど、だとしたら、それほどまでにたくさんの感じ方を生み出せる曲というものはそれだけで最高といえるのではないでしょうか。
とにかくこのバンドの紡ぎだす音楽は他とはまた違う。それだけは絶対に間違っていないだろう。ありきたりという言葉でこのバンドを語れる人間がいるとすれば、それは自分とは相いれない考え方を持っているだろうし、そして恐らく自分はその人間の解釈には賛同できないだろう。
「動物たちだまりこんだ」
「みずの底で いしがけずれる」
この二つが並ぶことによって、まるで動物がしゃべることが当たり前のことのようになっている。ま、もちろん鳴くという行為に対しての「だまりこんだ」と考えることも可能だろう。だけど、この場合、自分は動物が話しているのだと思う。
そしてこの部分につながる
「冷蔵庫のなかでひかる なにもみてはいないまなざし」
このフレーズの与えるインパクト。これがこの楽曲では「当たり前」のように存在しているのだ。自分だって今こうして歌詞カードを開いて、切り取られた言葉としての歌詞を見ていないと、この歌詞の奇妙さに気づくことはできなかった。ただ楽曲を聴いているだけだと、それら奇妙な言葉はそこになくてはならない、むしろないことのほうがおかしい言葉として伝えられるのだ。これはなんということか…ここまで奇妙を普通にできる曲は存在するだろうか?そしてそれを書くことができる人がいただろうか?違和というものをここまで感じさせないとは、もはや感服し脱帽するしかない。
そして自分は気になってしまう
「あしもとのひえたかわを なにかがしたたった」
その何かとはなんだろうか?いったい何が?このあしもとのひえたかわとはなんだろうか。
なぜこんなにもひらがなが多用された歌詞なのか?それはおそらくここにちりばめられたワードすべてが、おそらくこの歌詞を紡いだ人にとっては、既存のワードではなかったからではないだろうか。そう、もしかしたらさっきの引用のあしもとは「足元」ではないのかもしれない。かわだって「川」ではないのかもしれない。
そう考えてくると、どこまでも広がっていく。止まらずに拡張されていく世界観がここにはあるんだろう。
かくも素晴らしき音楽にはなかなか出会えない。これはぜひ聴いてほしい。
さてこんなところかな、今日は。
書くのに二日かかったww
さて、これから少し用事があるのでこの辺で。
ノシ
さて、前回も書いた通り、今日は楽曲レビューを。
今日最初に(二つ以上書く気力があるかわからないけどまずは一つ目に)取り上げる曲はjoy / アイオライトです。joyがバンド名で、アイオライトが曲名です。
この曲はエウレカセブンAOの後期EDテーマでした。この曲を初めて聞いたのはその時です。
友達に交響詩篇が面白いという話を聞いて見てみたところ、まぁーなんという電波アニメww
最初のほうはまだマシだったんだけど、後半はほとんどもうわけがわからず見てましたね。こんなにわけのわからんかったアニメはガンダムWだけでした。しかも後半はホランドのレントンへのDVがひどくて始終ムカついてましたねww「コイツ、マジで嫌いだ」って思った最初のアニメキャラですわ。未だに嫌いです。
まぁわけのわからんかったアニメだったが、でもなんか純粋なレントンとエウレカを見ているとこう感動できるものがあったし、何より最後のほうではレントンがどんどん成長して、最後にはただのイケメンになっていて、そういうところがよかったかなーと思います。
でも繰り返し見ようとかは思えなかったww
んで、その流れでAOも見始めたわけですが、まー世界観がものの見事に違いすぎて、これ別にエウレカでやんなくてよくね?と思ったことは隠せませんでした。これがどこに向かって進んでいるのか、わからなくなることのほうが多かったですからね。でもとりあえずフレアがかわいいから見とこーと思って視聴。そして後期が始まったとき、ワタクシは震撼しました。 OPもEDもめちゃくちゃいい曲じゃないか!と。エウレカのOPはやっぱりflowじゃないとね~と思っていたのんでブレイブルーは最高でした。ですが自分が最もひかれたのはこのアイオライト。
この曲はイントロの一音目、要するにメロディーの一音目、そこから心をつかんできましたね。歌声もそうなんでしょう。でもその次の瞬間に追い討ちをかけるかのようにしてなり始めるベースとギターの音、そして軽快なドラム、これがもうなんか何とも言えず最高だったんですよ。EDアニメーションもなんか一部はアニメの内容とあってなくて云々とか言ってたらしいけど、自分はなんかとっても感動できるように感じて(決してフレアがかわいいからではありません、決してフレアがかわいいからというだけではありませんが)、このアイオライトという曲の歌詞とも相まってすごくいいなと思ったんです。「そうして僕は僕になる」という言葉が、すごく印象的でした。なんだかわけのわからないうちにLFOのパイロットになったり、母親がよくわからない人だったり、幼馴染はいきなりわけのわからないことを言い出すし、とにかくわけのわからないことに巻き込まれて迷って悩みながらも成長していくアオの言葉のようにも聞こえて。
「あぁ、これぞ名曲なんだ…」
と思ってすぐにCD買いました。それでしばらくはヘビロテしてばかりいましたね。Youtubeにも確か公式のMVが上がっていたのでそれも見ていました。うん、アニメと切り離してもすごくいい曲だった。ボーカルの声は透き通るようで、歌声には無理な力みが見られないのにそれでも心に引っかかってくる。すっと入ってくるんですよ。あんまりエレクトリックな音楽には詳しくないんですが、シンセの音かな?それがすごく特徴的で、ロックバンドなんだけど重たい音楽というよりもむしろ、流れるようななめらかさというか、漂う感じを出しているんですね。ギターもそんなに激しい感じじゃなくてふわっとしている感じというか、強い主張をしているわけではなくて、その電子音に合わせるようにさわやかさを前面に出している。ドラムとか結構がっつり叩きまくってるんですよ。ギターロックの色が強めな邦楽ロックの中では珍しいかなと思います。でもそれがギターとか電子音と相まってちょうどよくて。サビ前でくるベース!!!これにはやられますね。間奏部分で入る特別なエフェクトがかかったボーカルもいい。
本当に最初から最後までさわやかな曲って感じです。よく晴れた日の朝に聴くとめちゃくちゃテンション上がります。この曲のイメージカラーは青とか水色、白、緑(薄くて少し水色がかった感じ)ですね。
このバンド、調べてみたらこの曲でメジャーデビューしたらしく、まだまだ新進気鋭ですね。王道というにはちょっとおおげさかもしれないけど、安定感があると思いますね。斬新性が強いというよりは。あ、いい意味でね。奇をてらいすぎるより、こういうさわやかでストレート、でも奥の深いメッセージを歌っている曲は大好きです。
サビのフレーズは心にとにかく響きます。
「あなたを想うことさえも 許されないと知って 存在を否定されたような気になっていたよ」
「待ち受けている運命に 立ちすくみ怯えていた もう決して迷わないように 強くなっていくよ」
「二度と戻れない過去を 明日から糧にして そうやって乗り越えてゆくのさ」
「そうして僕は僕になる」
自分の実力や先々のことを憂う気持ち、でももうこの一瞬も次の一瞬も決して取り戻すことはできない。だからこそ迷わずに強く突き進んで、自分の運命でさえも乗り越えてみせよう、もっと強く生きようという、少年のさわやかで、だけどほろ苦く、どこまでもまっすぐな気持ち。自分はそんな気持ちが少しわかる気がします。昔、いやひょっとしたら今もそうやって生きているような部分はあるんじゃないのかな、と。似たような感情を抱いた人は、少なからずいるんじゃないでしょうか?
AOの最終話でアオがまた島に戻っていくところでこの曲が流れた時にはもうやばかった。さんざん悩んで苦しんでわけがわからなくなって憤りを感じて、でもそうやって生きていく中でようやく自分の中で何か『答』と呼べるものを見つけ出して、そして最後に決断を下したアオ。すごく良かったと思います。レントンとの戦いの中で言っていたセリフ、正確には覚えていないけど、あれはすごく良かったと思ってますね。
まぁ下世話な話をするなら、あそこまで要素が散らかったのによくあの最終回でまとめることができたな、と思って自分なりに満足しましたねww
さて続いて語りたいのはpeople in the box / 物質的胎児
peopleを聴き始めたのはごく最近で、まだ最新のアルバムにしか手を出せていません。名前はずいぶん前から知っていたのですが、なかなか自分で自由に使えるお金のなかった時でしたので、CDを買うことはできずにいました。ずっと聴きたいと思っていた矢先にラジオのゲストでボーカルのハタノさん(漢字忘れた)がいらして、その時に話とともにがっつりと楽曲を聞いたのですが…
ドストライクでした。
言葉の選び方というか、選ばれて紡がれた歌詞が、僕の好みを抑えつつ、その斜め上にまで伸びている感じがしましたね。「これだ!」って思って次のくらいには買おうと思えました。いろいろ立て込んでしまったせいでそのずいぶん後に購入してしまいましたが。
中でもこの物質的胎児という曲がすごく気に入りまして。
全体としてはイントロは静かに入って行って、最後までその雰囲気を保ちつつも盛り上がっていく感じかな。イントロあたりのドラムの音は心臓の鼓動音を意識しているように感じた。ギターの音はまるで母親のおなかの中にいる時の羊水の流れを連想させました。たぶんタイトルから自分はそう感じたんだと思う。不思議な浮遊感をずっと給って進んでいく曲で、すごくきれいな曲、というのが聴いた率直な感想なのですが、でもきれいという一言で表すにはあまりにもその言葉が貧乏に感じてしまうんです。この美しさにはどこかきれいというプラスの意味合いだけを持ったものではなく、もう少し違うニュアンスがあると思うんですよ。あきらめやデカダンスのようなものの存在に対してそれを軽く揶揄…いや違うな、それらの存在を軽く認めて、その上でそれらをきれいなものに書き換えてしまっているというか、全然きれいじゃないと思ってしまうようなものまでも、この楽曲の中では、おそらく意図せずして、そうなるべくしてきれいなものとして流れて行っている気がするんです。その世界観は不思議すぎて、現存する言葉を組み合わせただけの基本的な文法事項では決して語ることができないような、そんな尊さや気高さ、ないしは完成された完璧さというものがあるようにさえ感じてしまう。
たぶん聴く人によっては意味なんてない歌詞だという人だっているかもしれないけど、自分は一人の受け手として、すべての楽曲に何かしらの意味と解釈を見出していきたいと思っています。それが音楽を聴くということなんじゃないかと思っているからです。だから僕のこの解釈はだれかのそれとぶつかって構わないし、もしかしたら作り手のものとは食い違っているのかもしれない。けど、だとしたら、それほどまでにたくさんの感じ方を生み出せる曲というものはそれだけで最高といえるのではないでしょうか。
とにかくこのバンドの紡ぎだす音楽は他とはまた違う。それだけは絶対に間違っていないだろう。ありきたりという言葉でこのバンドを語れる人間がいるとすれば、それは自分とは相いれない考え方を持っているだろうし、そして恐らく自分はその人間の解釈には賛同できないだろう。
「動物たちだまりこんだ」
「みずの底で いしがけずれる」
この二つが並ぶことによって、まるで動物がしゃべることが当たり前のことのようになっている。ま、もちろん鳴くという行為に対しての「だまりこんだ」と考えることも可能だろう。だけど、この場合、自分は動物が話しているのだと思う。
そしてこの部分につながる
「冷蔵庫のなかでひかる なにもみてはいないまなざし」
このフレーズの与えるインパクト。これがこの楽曲では「当たり前」のように存在しているのだ。自分だって今こうして歌詞カードを開いて、切り取られた言葉としての歌詞を見ていないと、この歌詞の奇妙さに気づくことはできなかった。ただ楽曲を聴いているだけだと、それら奇妙な言葉はそこになくてはならない、むしろないことのほうがおかしい言葉として伝えられるのだ。これはなんということか…ここまで奇妙を普通にできる曲は存在するだろうか?そしてそれを書くことができる人がいただろうか?違和というものをここまで感じさせないとは、もはや感服し脱帽するしかない。
そして自分は気になってしまう
「あしもとのひえたかわを なにかがしたたった」
その何かとはなんだろうか?いったい何が?このあしもとのひえたかわとはなんだろうか。
なぜこんなにもひらがなが多用された歌詞なのか?それはおそらくここにちりばめられたワードすべてが、おそらくこの歌詞を紡いだ人にとっては、既存のワードではなかったからではないだろうか。そう、もしかしたらさっきの引用のあしもとは「足元」ではないのかもしれない。かわだって「川」ではないのかもしれない。
そう考えてくると、どこまでも広がっていく。止まらずに拡張されていく世界観がここにはあるんだろう。
かくも素晴らしき音楽にはなかなか出会えない。これはぜひ聴いてほしい。
さてこんなところかな、今日は。
書くのに二日かかったww
さて、これから少し用事があるのでこの辺で。
ノシ
2013年2月3日日曜日
省々道々 2
自分は伝えたいことが多すぎる。
それは恐らく自分という人間が、認めたくはないけれど、いわゆる暑苦しい人間の部類に入ることを暗に示しているのかもしれない。最近そう思うようになってきた。
たぶんそうなんだろうな。
憧れるというか、あぁ、いいなって生き方は、代替クールだったり無気力だったりするような人で、アニメや漫画のキャラで言うなら、省エネ主義者の折木奉太郎とか、テンペストの吉野とか、そういう感じで生きていたいなとか思うんですよ。なんだろう、感情的になるよりも一歩下がって自分や周りを俯瞰していられる感じの、そんな感じの人間に。
でも、それって憧れている時点でそれはきっと自分にはないものなんだってのを示しているってことだ。つまりはそういうタイプなんじゃない。
自分はどっちかというと、感情的な人間だ。起伏が激しいというわけじゃないけど、自分に対しても、人に対しても、自分のことを考える時も、誰かのことを考える時も、その人の気持ちというものにこそ焦点がいく。つい最近までは、ひょっとしたらいまだに、それが自分の感情にしか向いていなかったから自分は自己チューだ(った)。最近では少しずつ人の気持ちというのにも気づけるようになったけど、それでもまだまだ不十分で。ま、とにかく自分は感情というものに重きを置いて考えを進めていくタイプだ。だから怒れば収まりがつくのは遅いし、許すのも遅いかもしれない。相手の気持ちを汲み取りたい、だから聴かせてほしいと、そう迫ることが多いかもしれない。それは決していいメソッドではないだろうけど、でも仕方がない。自分は相手の気持ちが知りたいのだ。想像しかできないそれを、少しでも相手の口から聴きたいんだ。そして自分は思っていることをより多くの人にたくさん伝えたい。自分の抱いたこの感情を大切にしたいというよりも、それは主観的なそれでしかないので、誰かの目に通して別の見方や考え方を手に入れたいのかもしれない。つまり、自分はより多くの人に考えをたくさん伝えて、それと同じ分だけ、もしくはそれ以上のレスポンスがほしいのかもしれない。そういう人を好みやすいのだと思う。言っていることをただひたすら聞いてくれる相手、それはそれでとても素晴らしい。大切にしたい人だ。だけど、レスポンスもほしいのだ。
ここまで書いて自分を俯瞰してみると、自分はどうやらずいぶんめちゃくちゃ大変なことを人に要求しやすいらしい。これでは多くの人が疲れてしまう。これが自分という人間の相手に与えてしまう面倒くささにつながるのだろう。そうだな、少しはセーブしないといけないだろうな。最近は本当に相手がどう思っているのかに興味があるし。
自分の感情を言語化して相手に伝えるのは、出来事を伝えることよりも格段に難しい。
現に自分はここで自分の感情を正確に言語として体現できているのかはわからない。
言語である以上は受け手により解釈の違いが出る。そういう意味じゃすべての言語は文学であるともいえるのではないかと思うが、学者に批判されそうなのでそうではないことにした。
つまりは何が言いたいかというと、そんな難しい作業はよっぽどではない限り相手に強要するのはどうなのか、と自分に問いたいのだ。
大事なことは、きっと、相手が自分の感情を話したくなるような人間でいられるかどうかなんだ。自然とその難しいことをやって、そのうえで伝えたいと思われるような人間なのかどうかなんだ。
思っていることを正直に言ってもらえないのは、正直に言わせられる力がないからだ。人はそれを人望と呼び、また信頼と呼び、また形を変えれば器とも呼べるのだろう。
俺にはそれが欠如しているんだと思う。そう、気持ちを伝えてもらえないなんて、それこそ、ほら、例のあれだ
「所詮俺という人間はその程度の人間だったんだ」
ということだ。
要するにそういうことだ。
ここから得られる反省点は、もっと相手が自分の気持ちを打ち明けられるように、感情以外の何かほかのことでも相手に興味を持ち、日ごろからかかわってあげるべきだということだ。まぁ、この場合たぶん、自分が関わってほしいからやっているんだろう。あぁ、なんて独善的な自分なのか…
自分という人間は暑苦しい一方で、「笑い」というものを大切にしたい人間なんだと思う。
自分はよく冗談や皮肉を言うことが多い。皮肉はどうかと思うが。冗談で人を笑わせたり、突っ込みで笑いを取ったり、うまいことを言ったり、変なことを言ったり、そういうので笑ってくれるのが大好きな人種らしい。芸人ほど面白くはないし、たぶん結構不発の時が多いけど。
ラジオにネタを投稿して読まれる。この経験が自分のこの部分を形成してくれたのだと思う。自分が面白いと思う、誰かを笑わすことができるネタを投稿できたら、その時点で自分は勝ちなのだ。なのにそれを放送で読んでもらえる…至高の喜びでしかない。そしてそれでテンションが上がるのだ。誰かの笑ほど、自分を直接的に高めてくれる人間はいるだろうか。
だが、この部分が裏目に出ると、普段から冗談しか言わない人になってしまうのだ。だけど、実際の自分というものはこのように自分の考えをやたら目ったらこねくり回して考えている、意外にうじうじしたやつなので、周りに自分を誤解させやすい。本気の言葉を投げて冗談ととられることも少なからずある。そんなときもあれだ、例の言葉
「所詮自分はその程度の人間だったんだ」
ってわけだ。
ここから得られる、得なければならない教訓はこうだ。もっと目理入りつけて生きろ、人望のある人間になれるよう日ごろの行いに気をつけろということだ。
自分という人間はおそらく、人前に立ってまとめあげる力に、天才的ではないにしても、多少長けている部分はあるのではないかと思う。能力的には少しだけその素養はあるのだと思う。だがそれに人格が相当していないから、サークルの指揮者としての自分にはまだまだ力がない。人望という最も欠けてはならないその力が。自分は人を信用させるだけの説得力が全くない。まったくではないにしても、もっとより多くに自分の気持ちが嘘ではないことを伝えられる力が必要だ。行動が必要だ。
ってか、もしかしたら周りのほうが正確に自分を見ていてくれて、自分はうそをついているのかもしれない。そう見られてしまうことが多いのかもしれないのではなく、事実そうなのかと。んーそうかもな。でも、自分がどう思うかは自分で決めるしかなくて、嘘かどうか疑ってそのうえで本物だと思ったことをウソって言われたときに自分は怒りたくなるから、そうじゃないのかもしれない。怒るってことは何かやましいことがあるってことか?とも思うんだけど、でも違うと思う。それはきっと自信を持って生み出した名作を「クソ」だとか根拠もなく否定された時のものだろう。根拠さえはっきりしているならいくらでも認めて受け入れて遂行のし甲斐があるが、ただの好き嫌いで「クソ」と言われれば万の言葉、いや億の言葉を用いてそいつを敵とみなし論破して進ぜよう。たぶんそういうときの怒りだから、そこには自信を持っていいのかもしれない。
疑うことや考えなおすことは大事だけど、自分という人間の根幹にそれをやってしまうと、後々疲れることになるからやめておく。
直さねばならないことだけはそうしていく。常に新しい視点や解釈を忘れないように。
そうやって生きているのが実情だと思う。
自分は天才ではないから天才にはなれない。
そう、何もかもわかったような、文学での三人称の語り手みたいな、そんな人間じゃないんだから、仕方がないんだ。自分で考えて軌道修正して。それを繰り返す、泥臭い人間なのだ。だけどそれも悪くないと思える。たんたんと生きるよりも、毎日が濃厚だ。
頭の中はいつでも濃厚だからちょっと疲れる時がある。そんな時に厄介ごとにぶつかるともうイライラだ。カルシウムとビタミンCをとろう。
さて、やらないとならないことが残っていて、今インフレを起こしそうだからこの辺で今日は終わらせておこうか。
明日は最近聞いた楽曲のレビューでもしようかな。アーティストのレビューだとちょっと規模がでかくて漠然として抽象的になっちゃうだろうから、気に入った曲をヘビロテしながらゆっくりと書いていこうかなと。
それでは。
省々道々
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